シリーズ11回目となる今回は、“品詞”について。
“表現法を増やす”をコンセプトにこれまで各文法を見てきましたが、それらの文法を使って表現するにあたって、さらに根本となる重要な知識があります。
それが“品詞”。
副詞だ、形容詞だと言われても、何のことだか“よくわからない”。
これでは、“表現”どうこう以前の問題です。
そんな方に向けて、今日は文法学習の肝となる“品詞”を理解するための“心構え”を一つ、紹介させていただきたいと思います。
西宮市の地で学習塾の立場から、新型コロナウィルスの感染拡大防止が叫ばれる非常時に、平常時へ戻ったときに必要になる備えを真剣に考える塾長のブログ。
シリーズ11回目となる今回は、“品詞”について。
“表現法を増やす”をコンセプトにこれまで各文法を見てきましたが、それらの文法を使って表現するにあたって、さらに根本となる重要な知識があります。
それが“品詞”。
副詞だ、形容詞だと言われても、何のことだか“よくわからない”。
これでは、“表現”どうこう以前の問題です。
そんな方に向けて、今日は文法学習の肝となる“品詞”を理解するための“心構え”を一つ、紹介させていただきたいと思います。
いかにも難しそうな言葉です。
“濃度”に関する話は、中学校だけではなく小学校でも出てきますが、ここを苦手とする生徒は非常に多い。
ですが、当然“容赦はありません”。
色々な場面で、事あるごとに顔を出してきます。
つまり、ここを突破できないのは“致命傷”。
そこで今回は、苦手とする生徒が多い“濃度の理解に迫りたい”と思います。
今回は、幼少期に行われる事が多い“読み聞かせ”が話のテーマになります。
ただし、ここで“パソコンやスマホで検索すれば出てくるような専門的な話”を長々とまとめ直しても、あまり意味がありません。
そこで、研究資料などの類いは一切考慮せず、これまで現場で様々な生徒の指導をする中で感じた“独自の見解”をお話させていただきたいと思います。
結果的に“どこかで見た話、聞いた話”と感じる箇所があるかもしれませんが、少しでも参考になることを書けたらと思います。
まず、最初の段階で子供が“読み聞かせ”に全く興味を示さなければどうしょうもありませんが、ここでは、それなりに“楽しんでいる”ことを前提に話を進めていきます。
色々な物語を聞いていれば“感受性が育つ”のは言うまでもありませんが、同時に耳から“たくさんの言葉”を知ることになりますよね。
これは今後に向けて、とても“大きな一歩”になります。
ですが、成長するにつれて、当然“内容に物足りなさ”を感じてくれるようになるはず。
もう少し“長めの物語を聞きたいなぁ”と。
しかし、ご両親からすれば、読み聞かせにそこまでの時間を使うわけにもいきませんし、次第に大変にもなってきます。
そしたら、“自分で読めるようになるしかない”と思うのではないか。
そう個人的には考えています。
もちろん、“何歳くらいで”というのは個人差があると思うので分かりませんが、少なくとも“本を読む”という習慣を身に付けるための“下地”は、これで作られると思います。
その“下地”さえ作れたら、あとは子供が自ら進んで行ってくれます。
自力で読もうと思ったら、“ひらがな”や“漢字”を覚え、言葉の意味を知らなくてはなりません。
“自分で読みたい”という気持ちが、それらの学習を自然な形で後押ししてくれるはずです。
ひと昔前で言えば、“読み聞かせ”が子供をあやす定番のようなところがありました。
しかし、近年ではスマホをはじめとした電子機器の発達により、幼少期からそれらに触れている子供さんを見る機会が増えたように思います。
もちろん、それが100%悪いことだとは言いませんが、読み聞かせに比べると、今後の学習に向けた“流れ”を作りにくいことは確か。
やはり、ゲームにしても動画にしても、基本的に“受け身”でいる状態が良くありません。
言葉を知り、表現力を磨くには、ある程度の“主体性”が必要になるでしょう。
今回の話は“幼少期”を対象とした為、外野の人間では“どうにも出来ない感”が否めませんでした。
しかし、“本を読み慣れている”ことのアドバンテージは確実にあります。
これを強く“主張”することで、今日のところは締めたいと思います。
小学5年で習う、“単位量あたりの大きさ”という単元のことです。
先々の学習でも当たり前のように使われる“考え方”だけに、重要なのは言うまでもありませんが、いかんせん苦手とする生徒が多いところ。
おそらく、その原因は“使い時が分からない”ことにあるのではないかと思っています。
唐突に問題を出され、解き方を説明され、即演習に移る。
これでは、生徒たちには“何のこっちゃ!”という気持ちしか残りません。
そこで今回は、もう少し“取っつきやすくなる学習手順”を紹介させていただきたいと思います。
“その作業をするなら、この機械を使った方が早いよ”。
そう言われて使ってみた機械の処理スピードに“驚愕”し、それ以降、当たり前のように“その機械を使って作業する”。
こんな事は、近頃では“よくあること”ですよね。
それほど、各分野における機械の発達は進んでいます。
今年は特にコロナウィルスの感染拡大に伴い、教育現場でもオンライン授業をはじめとした、色々な機器の発達に“恩恵”を感じた一年だったかもしれません。
ですが、私たちはこの機械の活躍を“手放しに喜んでいていいのだろうか”。
ふと、そう思うことがあります。
機械を使っているつもりが、実際には自分たちが“使われている側だった”。
少し怖い話ですが、そう遠くない将来、そんな日が来るかもしれません。
そんな時“機械を使う側”で居続けるためには、どうしたらいいのか。
今回は、そのことについて考えていきます。
前回の弥生時代に続き、古墳時代の“つかみ”になります。
稲作が伝わり、貧富の差が生まれたことによって、どういう展開になっていくのか。
今回も歴史嫌いな生徒のための“つかみ”を紹介させていただきたいと思います。
それでは早速、見ていきましょう。
例えば、本で“迷路”をしていたとします。
途中で行き止まりになりました。
あなたなら、どうしますか?
こんなところにも、その人の性格は出てきます。
“初めからやり直す人”
“途中まで戻る人”
“投げ出してしまう人”
様々いることでしょう。
もちろん、投げ出さずに最後までやり切れる性格であって欲しいのは言うまでもありませんが、今回の本題は、“そこではありません”。
このような“遊び”を通して得られること、具体的には“考える力の鍛え方”について今回は、お話したいと思います。
シリーズ10回目となる今回は、“比較”という文法についてです。
“比較”自体の理解は中学レベルに関する限り、“そこまで難しいものではありません”。
ただ、この言い方からも分かる通り、高校レベルでは“それなりに厄介な文法”へと様変わりします。
この“それなりに厄介”を厄介と思わない為には、どうすればいいのか。
それはズバリ、中学レベルの段階での“学び方”にあります。
そこで今回も“表現法を増やす”という考え方を軸にして、その“学び方”について考えていきたいと思います。
今、説明した内容は、生徒たちにとって“どのくらいの重要度(あるいは優先度)なのだろう”。
ふと、こんな風に思うことがあります。
もちろん、重要度が高かろうが低かろうが、やらなければいけない事に変わりはありません。
けれど、それは指導者側の“理屈”であって、我々大人でも、自分の中で重要度が低いと思うことを学ぶのは“苦痛”です。
そこは子供であれば尚更です。
そこで今回は、理科に出てくる“ある知識”の説明の仕方を題材に、これまでとは少し違った“置き換え”の仕方で、このことについて考えていきたいと思います。
スポーツでも勉強でも、努力して良い結果を出した時、“努力した分、これくらいは当たり前”と豪語する人と、“今回は良かったけど、自分の実力はまだまだ”と謙遜する人。
なんとなく日本では前者の方が人から嫌われるような気がしますよね。
自信満々に豪語する人よりも、謙虚な対応をする人の方が、好感を持たれる感じがします。
そのせいか日本人は、よく“謙遜”をする。
そうすることで、“調子に乗っている”と思われることは、無くなるかもしれません。
ですが、果たしてその“謙遜”に意味はあるのか。
今回は、このことについて考えていきたいと思います。